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2009年04月 アーカイブ

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家族

父は元々は哲学や歴史を修めるために大学に行ったが、途中から音楽家に転じたという経歴を持つ、ザルツブルクの宮廷作曲家、ヴァイオリニストであったレオポルト・モーツァルト、母はアンナ・マリーア・ペルトル、姉はマリーア・アンナである。

なお、祖先の姓はモッツハルト。

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子供はいませんでした・・・

モーツァルトは妻・コンスタンツェとの間に4男2女をもうけたが、そのうち成人したのはカール・トーマスとフランツ・クサーヴァーだけで、残りの4人は乳幼児のうちに死亡している。

フランツは職業音楽家となり、「モーツァルト2世」を名乗った(フランツは弟子のジュースマイヤーの名であり、このためフランツ・クサーヴァーはモーツァルトの実子ではなく、妻・コンスタンツェとジュースマイヤーとの婚外子という説がある)。
成人した2人の男子はどちらも子どもを残さなかったため、モーツァルトの直系の子孫は居ない。

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就職活動に失敗・・・

1756年、ザルツブルクに生まれる。父・レオポルトは息子が天才であることを見出し、幼少時から音楽教育を与えた。

父とともに音楽家としてザルツブルク大司教ヒエロニュムス・コロレド伯の宮廷に仕える一方でモーツァルト親子は何度もウィーン、パリ、ロンドン、およびイタリア各地に大旅行を行った。

これは神童の演奏を披露したり、よりよい就職先を求めたりするためであったが、どこの宮廷でも就職活動に失敗する。

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35歳の若さで没

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1781年、25歳のモーツァルトはザルツブルクを出てウィーンに定住。フリーの音楽家として演奏会、オペラの作曲、レッスン、楽譜の出版などで生計を立てた。

ウィーンではピアニストとして人気を誇ったが、晩年までの数年間は収入が減り、借金を求める手紙が残されている。

モーツァルトに怖れをなした宮廷楽長・アントニオ・サリエリらのイタリアの音楽貴族達が裏でモーツァルトの演奏会を妨害した為、収入が激減した為と考えられている。
1791年、ウィーンでレクイエムの作曲中に35歳の若さで没した。

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1791年のこと

1791年、モーツァルトは『皇帝ティートの慈悲』、『魔笛』、クラリネット協奏曲と作品を次々に書き上げ精力的に仕事をこなしていたが、『皇帝ティートの慈悲』上演のためプラハに行った時にはすでに体調を崩し、薬を服用していたという。

レクイエムに取り組んでいる最中の11月20日から病床に伏し、2週間後の12月5日0時55分に死亡した。死に際して聖職者たちが来るのを拒み、終油の儀は受けていない。

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「リューマチ熱」にて・・・

症状としては全身の浮腫と高熱であったという。
ウィーン市の公式記録では「急性粟粒疹熱」とされる。
実際の死因は「リューマチ熱」(リューマチ性炎症熱)であったと考えられている。

また、医者が死の直前に行った瀉血が症状を悪化させたとも言われる。
実際の死因が「リューマチ熱」(リューマチ性炎症熱)であったと述べたが、これに関しては幼少期の度重なる旅行が原因であったとする説も存在している。

実際に旅行先で病に伏すことが少なくなかったことが手紙や記録に残されている。
これは当時の医療技術が未熟であったがために幼児の死亡率が高かったことと、道路の舗装が不完全であったがために馬車の振動が健康を脅かしていったことが背景にある。

そして、このとき罹患したリューマチに終生悩まされることとなる。
このリューマチを持病としたために彼の体格は小柄になり、さらには直接の死因にまでなってしまったとも考えられた。