家族
父は元々は哲学や歴史を修めるために大学に行ったが、途中から音楽家に転じたという経歴を持つ、ザルツブルクの宮廷作曲家、ヴァイオリニストであったレオポルト・モーツァルト、母はアンナ・マリーア・ペルトル、姉はマリーア・アンナである。
なお、祖先の姓はモッツハルト。
父は元々は哲学や歴史を修めるために大学に行ったが、途中から音楽家に転じたという経歴を持つ、ザルツブルクの宮廷作曲家、ヴァイオリニストであったレオポルト・モーツァルト、母はアンナ・マリーア・ペルトル、姉はマリーア・アンナである。
なお、祖先の姓はモッツハルト。
モーツァルトは妻・コンスタンツェとの間に4男2女をもうけたが、そのうち成人したのはカール・トーマスとフランツ・クサーヴァーだけで、残りの4人は乳幼児のうちに死亡している。
フランツは職業音楽家となり、「モーツァルト2世」を名乗った(フランツは弟子のジュースマイヤーの名であり、このためフランツ・クサーヴァーはモーツァルトの実子ではなく、妻・コンスタンツェとジュースマイヤーとの婚外子という説がある)。
成人した2人の男子はどちらも子どもを残さなかったため、モーツァルトの直系の子孫は居ない。
1756年、ザルツブルクに生まれる。父・レオポルトは息子が天才であることを見出し、幼少時から音楽教育を与えた。
父とともに音楽家としてザルツブルク大司教ヒエロニュムス・コロレド伯の宮廷に仕える一方でモーツァルト親子は何度もウィーン、パリ、ロンドン、およびイタリア各地に大旅行を行った。
これは神童の演奏を披露したり、よりよい就職先を求めたりするためであったが、どこの宮廷でも就職活動に失敗する。

1781年、25歳のモーツァルトはザルツブルクを出てウィーンに定住。フリーの音楽家として演奏会、オペラの作曲、レッスン、楽譜の出版などで生計を立てた。
ウィーンではピアニストとして人気を誇ったが、晩年までの数年間は収入が減り、借金を求める手紙が残されている。
モーツァルトに怖れをなした宮廷楽長・アントニオ・サリエリらのイタリアの音楽貴族達が裏でモーツァルトの演奏会を妨害した為、収入が激減した為と考えられている。
1791年、ウィーンでレクイエムの作曲中に35歳の若さで没した。
1791年、モーツァルトは『皇帝ティートの慈悲』、『魔笛』、クラリネット協奏曲と作品を次々に書き上げ精力的に仕事をこなしていたが、『皇帝ティートの慈悲』上演のためプラハに行った時にはすでに体調を崩し、薬を服用していたという。
レクイエムに取り組んでいる最中の11月20日から病床に伏し、2週間後の12月5日0時55分に死亡した。死に際して聖職者たちが来るのを拒み、終油の儀は受けていない。
症状としては全身の浮腫と高熱であったという。
ウィーン市の公式記録では「急性粟粒疹熱」とされる。
実際の死因は「リューマチ熱」(リューマチ性炎症熱)であったと考えられている。
また、医者が死の直前に行った瀉血が症状を悪化させたとも言われる。
実際の死因が「リューマチ熱」(リューマチ性炎症熱)であったと述べたが、これに関しては幼少期の度重なる旅行が原因であったとする説も存在している。
実際に旅行先で病に伏すことが少なくなかったことが手紙や記録に残されている。
これは当時の医療技術が未熟であったがために幼児の死亡率が高かったことと、道路の舗装が不完全であったがために馬車の振動が健康を脅かしていったことが背景にある。
そして、このとき罹患したリューマチに終生悩まされることとなる。
このリューマチを持病としたために彼の体格は小柄になり、さらには直接の死因にまでなってしまったとも考えられた。
モーツァルトは・・・病に伏す前に、妻・コンスタンツェに「自分は毒を盛られた」と語った事があるそうです・・・。
実際妻の手紙に「私を嫉妬する敵がポークカツレツに毒を入れ、その毒が体中を回り、体が膨れ、体全体が痛み苦しい」とまでもらしていたと言っています・・。
うぅ・・とても苦しそうですね・・。
そして、2002年にイギリスのモーツァルト研究家は、モーツァルトはポークカツレツの豚肉の寄生虫によって死んだと説いた説があります。
うーん、これは現在証明は困難ですが、実際、当時の売れなかった二流の音楽家達はモーツァルトを非常に敵対視していた為、可能性がある事はありますが・・。
また、死後にウィーンの新聞は「毒殺されたのではないか」と報じたんですよね~。
1820年ごろになると、ウィーンではロッシーニを担ぐイタリア派とウェーバーを担ぐドイツ派の論争・対立の中で「サリエリがモーツァルトを毒殺した」という噂が流行しました。
でも、きっと・・何かありそうですねぇ。
老いたサリエリは、1825年に死ぬまでこの噂に悩まされる事になったそうで・・・それはそれで可愛そうですよね。^^;
この噂をアイデアとして、『モーツァルトとサリエリ』や『アマデウス』などの作品が作られたそうなんですが。(笑)
葬儀の日取りは「12月6日説」と「12月7日説」の2つがあるのです!
遺体はウィーン郊外のサンクト・マルクス墓地の共同墓穴に埋葬。
誰も霊柩車に同行する事を許されなかったため、実際に埋葬された位置は不明だそうです・・。
これもよくわからない話ですよね・・・。
没後100年の1891年、中央墓地に当時サンクト・マルクス墓地にあった「モーツァルトの墓とされるもの」が記念碑として移動した時に、またもや位置が分からなくなってしまったという・・・。
あきれちゃいますね・・・。
現在サンクト・マルクス墓地にある「モーツァルトの墓とされるもの」は、移転後に墓地の看守が打ち捨てられた他人の墓の一部などを拾い集めて適当な場所に適当に作ったものなのであまり信じないように・・・。もちろん、「墓とされるもの」の下に骨があるわけではないのであしからず・・。

現在、国際モーツァルテウム財団には、モーツァルトのものとされる頭蓋骨が保管されています。
頭蓋骨ですよ!何でそんなものが・・・・。詳しくは、↓
頭蓋骨に記された由来によると・・・埋葬後10年目にモーツァルトを埋葬した墓地は再利用のため整理されて遺骨はバラバラになってわからなくなったそうです・・・。
整理じゃないじゃんん、って言いたくなりますね。
この時何故か、頭蓋骨だけが保管されて、以来複数の所有者の手を経て1902年に同財団によって収蔵。
遺骨が偽者か本物かについてはその存在が知られた当初から否定的な見解がかったのですが、2004年にウィーン医科大学の研究チームがモーツァルトの父・レオポルドほか親族の遺骨の発掘許可を得て、問題の頭蓋骨とのDNA鑑定を行うと発表。
鑑定結果はモーツァルト生誕250年目の2006年1月8日に、オーストリア国営放送のドキュメンタリー番組として公表されたそうです。
これによると・・・調査の試料となったのは頭蓋骨の2本の歯とモーツァルト一族の墓地から発掘した伯母と姪のものとされる遺骨から採取されたDNA。
検査の結果は、頭蓋骨は伯母、姪の遺骨のいずれとも縁戚関係を認められなかったが、伯母と姪とされる遺骨同士もまた縁戚関係にないことが判明し、遺骨をめぐる謎は解決されなかったというグダグダな終わり方に・・・。結局は、謎のままなんですね・・・。
作品総数は、断片も含め700曲以上です!
作品は多岐にわたるジャンルがあり、声楽曲(オペラ、教会用の宗教音楽、歌曲など)と器楽曲(交響曲、協奏曲、室内楽曲、ピアノソナタなど)のどちらにも沢山の作品が残されています。
作品を識別するには、音楽家のルートヴィヒ・フォン・ケッヘルが分類した作曲順の目録であるケッヘル番号が使われているのです。
ケッヘル番号は何度か改訂されていて、最新のものは第8版です。
モーツァルト自身は1784年以降に自作の作品目録を付けているんですけどね。
1784年より前の作品やモーツァルト自身の作品目録に載っていない作品には、作曲の時期がはっきりしないものもあるそうです。
まあ、作曲順はバラバラでもいいんじゃないですかね。
モーツァルトは古典派音楽の代表であり、ハイドン、ベートーヴェンと並んでウィーン古典派三大巨匠の一人です。
最初は実の父親に習い、ヨハン・ショーベルトなど当時のヨーロッパで流行した作曲家たちの様式を、クラヴサン曲を中心として学びました。
その後のピアノ・管弦楽曲はバッハの影響を受けています。
後期に入るにつれ、ハイドンとバッハ、双方の影響を強く受けていることがわかります。
モーツァルトの作品はほとんどが長調で、軽快で優美な、装飾音の多い音が特徴です。
これは当時の音楽の流行を反映したものなのだそうです。
これがロココ様式、あるいはギャラント様式と呼ばれています。
また、モーツァルトが主に使用していたピアノの鍵盤は、沈む深さが今のピアノの約半分でした。
それが軽快に演奏できる理由のひとつだったんですね。
モーツァルトは、晩年に向かうにつれて長調の作品であっても深い哀しみを帯びた作品が増え、その作品たちはしばしば「天国的」というように形容されます。
また、短調作品は非常に少ないながら悲壮かつ哀愁あふれる曲調で、交響曲第40番ト短調のように人気が高いですね。
モーツァルトの時代には、すでにポリフォニー音楽が流行遅れになり、ホモフォニー音楽が支配的になっていました。
しかし彼はバッハやヘンデルの作品を研究し、交響曲第41番の終楽章のように対位法を活用する手腕もあったんです。